Room-306 Exhibition トークイベント
大月 敏雄 Toshio Ohtsuki
大谷 宗之 Noriyuki Ohtani
工藤 賢二 Kenji Kudo
小林 秀和 Hidekazu Kobayashi
ライル(宏)サクソン Lyle Hiroshi Saxon
Room-306 Exhibition トークイベント
イベント
2011. 3. 7
トークゲスト:大月 敏雄 (東京大学工学部准教授)
3月7日夕刻より銀座奥野ビル306号室でGINZA OKUNO BUILDING ROOM-306 EXHIBITIONのオープニング・パーティが行われました。この展示会は実測という手法で、建築的な視点から306号室を捉えようとする試みで、建築士の大谷宗之氏 工藤賢二氏 小林秀和氏およびカメラマンのLyle(宏)Sxson氏によって制作されたものです。実測に基づいた設計図、および縮尺模型は、部屋そのものを肉眼で見る、感じる、知る世界とはまた違う位相で部屋の姿を伝えてくれています。「もし、あなたがこの部屋をかりるとしたら」をテーマに観客が自分のイメージで家具などをアレンジするという参加型のインスタレーションも体験してみると部屋の空間をあらためて認識するよき導きに思えました。それにもましてパーティの参加者と大谷氏の知人で東京大学大学院工学系研究科準教授大月敏雄氏によるその夜の会話は、偶然のつながりや新たな展開を示唆するとてもスリリングなものでした。
その後、3月11日に東日本大震災が起こってほぼ1カ月、どこか、頭の中が常に揺れを感じるような日々が過ぎ、ようやく新たな日常への歩みが始まろうとしています。実は、その夜の会話は記録のためにビデオで、撮影しておいたのですが、ずっと手つかずのままでした。かなり記憶が遠くなったものですから、ようやくプロジェクトの新たなる出発を考えるにあたり、聞き直してみました。私は失念していたのですが、大月先生から「この界隈のジオラマを作りたい」といったご提案などがあったことも記録されています。またこの建物が関東大震災後の復興住宅と関わりがあることなど、306号室プロジェクトのこれまでの活動と今後の企画を結ぶとても実り多い内容ですので、皆さんの共有財産とすべく、その概要を文字に起こしてみました。(文責 西松)
比留間 306号室の測量はどこからはじめたのか?
小林 測量は、面ごとに行った。
比留間 建築の時期がよくわからないが、フジモリ研究室の人が、ガラスがすばらしいといっていた。表面が丸くなっていて、鋭利になっている。
大谷 耐震性は分からないが、この建物を設計したのは、関東大震災の復興の時に造られた同潤会に関わった人で、強度は現在と変わらない。ひびが入っている。これは建物が二つの部分に分かれていて、それぞれは大丈夫だが、その継ぎのところにひびがはいった。一号棟のほうが少し、IBC側に傾いたと思う。小さい部屋に梁や柱が細かく入っている。復興住宅だったので、耐震性に注意したのだと思う。そこでこういう部屋のデザインになったのかもしれない。
比留間 建物が出来た頃に東京府が調査している。その冒頭にアパートメント・ハウスの由来はから始まっているのが面白い。その中には、スラムのようなものまで様々記してある。今の大谷さんの話でいえば、この建物は最高の部類に入るものだった。
西松 デザインで面白いのは、壁面の床から3分の一ほどの高さのところに、横に木が渡してあるが、途中で少し下にさげてある。どうしてこんな複雑なデザインにしたのだろうか?
大谷 これはオリジナルのデザインではなく、須田さんが美容室を始める時に、腰の部分のデザインを行ったものだと思う。ここに鏡があるので、物を置く台が必要であったのではないか。
大谷 ご紹介したい人がいる。東京大学の大学院で教えている大月先生。この建物に少し、関係があって、同潤会について本を書かれている。
大月 今回、建物をざっと見せていただいた。設計の手が同潤会とよく似ている。設計者の川元良一が同潤会を辞めて3年後の作品なので進化している。
比留間 同じ人が手掛けたという具体例はどこにあるのか?
大月 ハンチ(梁などで張りだしたもの)などがそれだ。ほかに換気口のおさまり。そしてモールディング(天井と壁の接合部などに使う装飾)などがある。寸法も同潤会と全く一緒だ。
西松 こうした装飾は、設計者が凝ったというよりは、すでにあったのですね。
大月 これは、こういう金型があって、それを通す。大量生産のために。同潤会の時にこのパターンでやっている。もともとヨーロッパの装飾にこうしたものがあった。
横山 同潤会は、原宿などいろんなところにあるが全部一緒なのか?
大月 ここを建築した川元さんは、第一線の建設部長であった。彼はもともと三菱地所の設計者であった。コンクリートの建物をいくつか設計していた。彼の師が内田祥三という東大の教授(安田講堂の設計者で同潤会の理事)だった。学生の頃、川元にアメリカの木造住宅を調べさせた。木造住宅とRC構造についてよく知っているということで、内田が川元を三菱地所から引き抜いて同潤会の部長にあてた。同潤会は今の公団の前身のような組織であった。
関東大震災の後、東京、横浜に1000万円の寄付金が集まった。それを元手にして基金を作り、そこでまず罹災者のために仮設住宅を作った。川元さんは3年間の期限付きで呼ばれてきた。復興機関なので元々少しの間だけということだった。しかし、組織というのは、とりわけ政府系の組織は1回作るとつぶさないというのがお決まりごとでずっと続く。しかし、川元さんは3年できっぱりやめる。初期の青山とか代官山とか、一番最後に川元さんが手掛けたのは鴬谷アパートだった。そこから先3つ4つのアパートは彼以外の同潤会の人がやった。同潤会のアパートは最初川元さんの設計だった。もちろん実際に書いたのはドラフトマンが書いたのだが。寸法はどうしろということは川元さんが指示していたであろう。私は16のうち初期の9個を全部実測しているので、大体感覚が分かる。
比留間 天井が低い。特に気になったのは、美容室でこの鏡の高さだとすると、相当低いと思うのだが。
大月 同潤会も天井は低い。このアパートができた時は、美容室ではなく後で変えた。これはオリジナルではない。リフォームした。しかし、この腰板はもともとのものだと思う。同潤会の中に腰壁のいい東山アパートというのがある。しかし、はがしてみないと本当はわからない。後からリフォームしても、あったものをリスペクトして似た物を作ることもある。
横山 同潤会アパートの1号はどこか?
大月 1号は二つある。中之郷と青山(表参道)、 中之郷というのは新東京タワーの近くにあった。復興住宅なので初年度に4つ建てた。
大谷 不思議なことに、阪神淡路大震災の時、仮設なので、その場で住めればいいという最低限のスペックだった。同潤会の青山にしても時代の最先端を行くハイスペックなものを作りましたよね。
大月 だから最初、評判が悪かった。
大谷 復興というと罹災したひとを出来るだけ多くというイメージがあるので「スペックより、量を」とおもったのですが。
サクソン 10年前、ロスの地震の時、高い建物は倒れなかった。ひびが結構入った。また、あるとどうなるかと思った。
大月 ロスのある西海岸は地震が多いので意識が違う。
サクソン ロスではボルトではなく溶接だった。日本はボルトを使う。溶接は安くできる。一か月後は知らないということがある。
この奥野ビルの一号棟と2号棟の違いはどこにあるのか? 外の植物の植え込みの浅い、深いが違う。窓の器具が違う。
大月 建てた時期が違うので、改良されていると思う。構造を計算する時に一号棟の壁を考えながら2号棟は造っていると思う。
比留間 そこは素人仮説がある。ここのオーナーの奥野さんは、ここで鉄道部品を作っていた。工場だった。事業の拡大で工場を大井町に移した。空いた土地をどうするかという時、奥野さんは第一線から退いて株主となり、賃貸アパートにした。だからディヴェロッパーだった。
大月 山万(不動産ディヴェロッパー)と非常に近いですね。
比留間 同じ時期に電通が会社を興した。ずっと家族経営で着実に現在まで来ている。
大月 株式を公開していない。正しい不動産の経営の在り方だと思う。
比留間 思ったのが、建物を拡張すると設計料がかかる。ひょっとすると一号棟の設計図を裏側にして、適当に工務店に任せて造ったのじゃないか。
サクソン 一号棟と2号棟では結構違う。同じところは少ない。絵も違う。
西松 5月からのプロジェクトに大月先生に入っていただいて建築についてやってはどうか。
大月 いいですよ。このことが書いてあるのは、中央区の文化財の冊子があって、そこでもこの建物は川元良一といわれているが定かではないとなっていた。サクソンさんがプレートを発見して確定した。
サクソン 何かあるので下から写真を取って拡大したが、読めなかった。ある時一階のアンティークの人が、梯子を出してくれたので読めた。そうらしいものと思っていたが遠くからでは読めなかった。
比留間 設計者が川元さんだと確定した段階でいうのも変だが、一説にはライトのアルバイト設計の可能性もあるというのもあった。
大月 ライトがアルバイト設計しようとしたのは帝国ホテルの前にアパートを作る計画があった。それと混同していると思う。
比留間 ライトがやったかもしれないという可能性は完全に断たれてしまった。
大月 ライトであるはずがない。ライトがやっていたら弟子の遠藤新がやっている。遠藤の年譜にあるかどうかだ。
比留間 ここに資料があるのだが、福田勝治という人が写真を取ってテキストをつけることをやっている。当時のキャプションがついている。
大月 水商売に適した人。うーん。ここには、西条八十が住んでいたそうですね。
比留間 小説の中でも、西条八十が自分の囲っていた女に騙される場面がある。このビルには建築の歴史とともに、住まわれ方の歴史もある。今、来たTさんが・・
大月 そう、僕は、ずっと前に本を書くためにインタビューをしたことがある。
比留間 Tさんの話では、入居する前、ここは小規模なオフィス・ビルだった。印刷のインクの匂いがしたという。
大月 この次の仕事は、川も含めて、この界隈のジオラマをつくること。
西松 大月先生のご提案の「この界隈のジオラマ」というのは発展形態としてはいいと思う。
比留間 この建物の前は川があった。聴覚を刺激すると部分もあったと思う。
大月 たしか、柳が植わってたんですよね。
サクソン 大きい木があったと聞いた。
大月 (かつて書いた本を見ながら) 設計者は川元となっているが、確信が持てないから、もし川元であればいいなと。
比留間 そこでサクソンさんによって川元と確定したというわけですね。
サクソン 僕も知りたい。実際どうだったかと。
大月 川元は丸ビルに事務所を構えていた。
サクソン 1990年壊す前に丸ビルに一回ビデオ撮影で入った。蒸気暖房の響く音とか、木造のドアで漫画も描いてある。
大月 丸ビルの建築を請け負っていたのが三菱地所で、そこで働いていたのが川元さんだった。川元さんは、三菱、銀座、丸ビルにゆかりのある人。人間関係を地図にしても面白い。歴史というのは狭い所で動く。
サクソン その時に東京駅を中心にした。寄り道で丸ビルに入った。もっと撮りたかったが、あまり外れてもと思った。今から思えばもっと時間を使っておけばよかった。
比留間 (黒多に)部屋の装飾のディテイルは同潤会にあったものと同じだという。
大月 私たちが実測した同潤会のものとこれと寸法を比較する。寸法というのは癖があって、開口どれ位にする。間口どれ位にする。その寸法を一致させると― 今となっては設計者が確定したわけだからまちがいない。
比留間 美術品の鑑定のようで、ちょっと面白い。
大月 (自著を見て)かつて30軒掘りと呼ばれていて柳の木が植わっていた。巷房の話も出てくる。もう10年ほど前だろうか。雑誌住宅建築に連載していて、そこで一番最初にやったのが2003年の9月。だから8年前にここをお邪魔してTさんに話を聞いた。設計者をさんざ調べたが分からなかった。
大谷 意外なところにありましたね。必ず見ているところにあるのですね。
サクソン 何かあるなと思って写真を撮って拡大したけどよくわからなかった。アンティークの店が梯子を出してくれたので、万歳と思って登って撮った。このビルは、何々だろうではなくはっきり昭和9年1月22日と書いてあった。何か嬉しい感じですね。
大月 すばらしいですね。
サクソン ただ、音が鈍感で人の名前が覚えられない。代わりに見えるものが明確。空間に入るといろいろと見えて、よく見れば発見する。普通の人は上にあるから、あまり感じないのかな。高いから。私は悪い癖であちこち見ているから。
比留間 ディテイルを追うというと黒多さんはここの棚の下敷きにしていたちらしをめくってみたりとか、上の棚の新聞の塊をめくって見たりした。赤旗だった。
大月 この棚は何だかわかりますか? 後付かな?
大谷 変わったデザインですね。
西松 何のために置いたのだろう。
黒多 デザインが不思議ですよね。
大月 へたですね。昭和9年にアパートができた時は、各部屋に神棚を飾っていた。
サクソン (裏側の部分)に渡した板は何か?
大月 つけ長押の部分に板を渡すのは、同潤会の手法だ。これがそのまま、元のものかどうかは分からないが。これは物を置く棚。同潤会は窓の上の部分に、板を渡した棚をよく作っている。
サクソン 別の部屋でもある。
大月 ちょっと時代が下って戦争が近付くとこういう神棚用の棚ができる。戦争が近付くと右翼化していきますよね。皇軍の。天皇のために死にましょうという。そこで天皇のご先祖は天照大神だから、神棚を祀る。そのために住民が作った可能性もある。もっと後かもしれない。
比留間 配電盤の横に神棚をおくだろうか?
大月 わからない。
西松 配電盤は後からここに造られたのではないか?
大月 他の部屋を全部、みればオリジナルが分かってきますよね。
西松 許される範囲で探検するのも面白いですね。
比留間 実は中央区からも言われたが、須田さんにフォーカスを当てるよりビルにフォーカスを当てたらどうかと。あと、古い方にインタビューする。
大谷 (大月に306プロジェクトの由来を説明) ここに住んでいる方がなくなって、遺族の方が物を整理された。その後、佐藤卓さんが最初借りられた。しかし、しばらく使う予定がないので、せっかくのこういうオリジナルの空間を、そのまま使う方法を模索するグループができた。その時に私が個展をさせていただいて隣に石を置きに来たら、面白いことをしているのでお話をしているうちに・・
大月 今ここはどなたがお借りになっているのか。
比留間 名目上は私が借りている。2年間契約で、家賃は皆で分担している。
大月 第1号のオープニングの後は何を?
比留間 これまでいろいろとやってきている。
西松 写真展などもずっとやってきている。
サクソン 来たらたまたま部屋が空いていて見れるということだった。「展覧会をやっているのか」と聞いたら「やっている」という。周りを見ると水道からポロ、ポロと水が出ていた。黒多さんはこの空間を感じるような展示をするといった。たしかに感じられた。
大谷 今回声をかけていただいて部屋を実測した。
比留間 このプロジェクトとしてはこれがオリジナルであるというのはあまり関係なくて、古いビルがいっぱいある中で、借主がどんどん変わると様子が変わってくる。竣工当時、すぐに入って100年生きて、ここで亡くなって、荷物出した後の状態は・・
大月 それはそれで資料的価値がありますよね。
比留間 あとは、壁なども朽ちるままに任せている。多分生活の中で塗り替えているとは思うが。亡くなった後、そのままにしている。
大月 須田さん自身はかなり調査されているのですか?
西松 やろうとしているのだが、ちょっと不思議な人で秘密めいたところがある。
比留間 学生の頃から奥野ビルに出入りしていて、その方がなくなって遺族の方に資料をいただいて、それがこの一冊のファイルに尽きている。しかもここには、それ以外のものも入っている。そう考えると100年の人生は重いのだけど、重いと思いながらここに収まってしまうというのはちょっと衝撃だった。
西松 逆にファイルしてもらえるような人生を送れたらそれは幸せかもしれない。
黒多 当時としては、銀座でこういう場所で、昭和の初期に美容室をしているというのは・・
大月 アグリの世界ですね。
西松 だから女性と美容というのも大きなテーマになるのかなと思っている。
大月 もうひとつの大塚女子アパートメント・ハウス物語(2003年に取り壊された男子禁制の同潤会アパート)ですね。
比留間 この部屋だけではなく、4つ借りていた。ゲストハウスが二つあったみたいだ。
西松 支店と書いてあるところを調べると、偽りもある。
大月 人間、影や偽りがあるものです。